オピニオン5:「市民の社会的責任」
24日の朝刊の一面に「薬害肝炎『一律救済』」の見出しが躍った。首相はあえて「自民党総裁として」と断った上で、議員立法での解決を計ろうと決断した。
TVのニュース速報で知った私は、長きにわたって、苦難の道を歩んできた多くの患者さんたちの闘いにやっと新たな展開が見えたこととして、とっさに快哉を叫んだ。しかし、時間がたつにつれ、一連の報道や問題そのものを自分なりに検証してみると、にわかにその高揚感も失せていった。
第一に薬害は、天災ではなく、人災である。天災なら、罹災者を「救済」とできるが、人災なら、その害を創出した側の責任を問うべきでそれには「謝罪、反省と補償」が不可欠である。「救済」という表現の背景には、あくまでも自らの「非」を認めようとしない役所の傲慢な意識が存在している。厚労省は、医薬行政において、強大な権限を持っているが、公僕としての、重い責任と義務も同時に背負っている。この意識の欠落が、「救済」という表現ににじんでいる。「公僕」は、もはや死語となったのか。
第二に、「自民党総裁として」という首相の発言に違和感を覚えた。司法の立場は、あくまでも、現行の法律の範囲のなかで判断を下す。しかし、人間は完璧ではないから、その人間が作った法律には、時代や環境の変化により、不都合も出てきて当然である。だからこそ、この未曾有の規模の薬害に、行政の最高指揮官としてしっかり向き合って、政治的判断を下すべきだった。そして、法律では、補うことのできない弊害の解決をはかるべきであった。日本の首相が、強大な官僚組織のなかで、自ら非力であることをあらためて確認するように聞こえ、極めて残念に思った。
第三に、議員立法による打開策は、官僚の自浄作用を求めないばかりか、行政機構の建前を無視して、政治が官僚の言いなりになっている実態をまざまざと世間に見せ付けた。一枚岩と見られる官僚機構の中でも、事態を憂慮している役人は、いないはずが無い。役人である前に、人間として、一連の「国の責任」を考えることはあるはずだが、今回の打開策は、その機会を役人から、奪い取ってしまったようなものに映る。
第四に、今回の首相の決断は、いわば対処療法であり、そこには中長期の視点も重大な問題解決への覚悟も欠落していた。支持急落に慌てて反応したということが実態で本質的な対応には、程遠い。しかし、原告たちは体力の限界まで、感情面に走りすぎず、冷静に辛抱強く、問題解決を訴えた。しかも、自分達だけの問題とせず、「薬害被害者」全体のために闘い、国民が「医療行政とはどうあるべきか」を私達が考える機会にもつながった。
今回の「議員立法」は、成立するにしても傷口に、絆創膏を張ったようなものだ。官僚のモラルを問うことは断念することで、政官のもたれあいは温存しつつ、支持率下落を食い止め、政権維持を試みる姿勢が透けて見える。
一連の薬害問題は、行政と企業のモラルの欠如という重大なテーマが底流にあったことは、確かだ。グローバル化が進み、企業活動が国際化を飛び越え無国籍化し、ますます巨大化が進む中で、企業の社会的責任:CSR(Corporate Social Responsibility)が更に問われる時代になった。しかし、社会のもっとも重要な構成員である私達市民は、批判し、怒り、落胆する以外になすべきことは、無かっただろうか。「政治への不信」は、裏を返せば、「主権在民」という姿勢をみずから、放棄したということにつながる。投票したのは、誰だったのか、ましてや、半数近くが棄権して、自らの権利と義務を放棄している。そのような状況で市民の声が、政治家や官僚にどこまで説得力があるのか。薬害訴訟の原告たちの闘いは、閉塞状態に陥りつつある日本の社会にとって、一縷の光明ともいえる。それは、市民が苦境に立っても、勇気を失わずに闘いつづけ、巨大な壁に風穴を開けるに至ったということに他ならない。こんな時代だからこそ、もう1つのCSR(市民の社会的責任:Civic Social Responsibilityが更に求められている。社会の根本的課題を前に、批判を繰り返すばかりで解決は出来ない。わずかなことでも、わたしたちに出来ることは必ずある。むしろ、そのわずかなことこそが、社会を動かす原動力の1つであることを忘れてはならないと思う。
なにかを願うなら、あわせて行動すべし。-アフリカのことわざー 事務局長 古木 修治



